関ジャニ∞と私(書きっぱなし長文自分語り)

タイトルの通りです!

 

【黄金期】

小学生。早熟した同級生からJr.で誰が好き?って聞かれて、ニノとすばるかなぁ〜って言った覚えがある。駄菓子屋のくじでひいたニノの下敷きを使っていた。友達の家に泊まった時に、危ない放課後を見た。


【2003年〜2004年】

中学ではジャニーズ派かORANGE RANGE派に分かれていた(あまり聞いたことのない派閥)。私はもちろん前者に所属していて、Myojoの切り抜きをプリクラ帳に貼ったりしていた。このとき初めて自名義でKinKi Kidsのファンクラブに入った。周りは山PやKAT-TUNのファンが多かった。友人のお姉ちゃんが録画してくれた少クラ(ビデオ)を借りて見る。Ya-Ya-yahを録画して見る。NEWSニッポンで初めてオンラインショッピングをする。地元にセブンイレブンがなかった。今では信じられないけど、まだオンラインで物を買うことが当たり前ではなかった。関ジャニ∞の記憶はない。関西以外の田舎にいて関ジャニ∞を見る術はなかったんじゃなかろうか。


【2005年】

高校生になった年の春は赤西担にKAT-TUNコンに連れて行ってもらった。城ホの立ち見で隙間から赤西仁を見た覚えがある。この友人は私をジャニーズ文化に導いてくれ、うちわを初めて作ったのもこの子の指南の元だった。初めて作った「光(光一担だったので)」のうちわはカッティングボードを貼り付けた物だったのだが、うちわ規制が厳しかったときに、会場入り口で最後のハネがはみ出てるから切るように言われて、涙ながらに切った。

相変わらずミーハーな気持ちでジャニーズを見ていた。裏ジャニは遅れ放送だったかな。いくつか見るジャニーズの番組のひとつだった。

そして、内博貴謹慎事件が起こる。衝撃で、友人にメールをした覚えがある。そうこうしているうちにspiritsというDVDが出たので買ってみたら、これがめちゃくちゃ良くて、関ジャニ∞にハマった。内博貴謹慎出と言えるかもしれない。曲も良かったし、単純にMCがめちゃくちゃおもしろかった。Exciteも買って見た。渋谷すばるのMCに衝撃を受ける(「腰振ったら勝てる」っていうやつ)。


【2006年】

どのタイミングか忘れたがYou&Jが発足したので会員になる。会員証キーホルダーは赤色だった。初めての関ジャニ∞現場はFunky Tokyo Osaka Nagoyaコンサートだった。通称布団コン。私的初日は大倉忠義うちわで入った。大倉くんってかっこいいな♡と思っていたところで、安田章大にぶち抜かれる。当時の安田くんは髪の毛がふわふわでめちゃくちゃかわいくてピカピカに光っていた。外周の安田くんが、スタンド上段に向かってニコニコと手を振る様子に完全にときめいて、これが安田担になった瞬間だった。ほんとにほんとにほんとに可愛かった。いまでもあの景色は忘れられない。

安田担の自我が芽生えたとき。当時も担降りブログを書いた覚えがある。安田章大についていく、と決めたときだった。

隣のクラスにすばる担がいると聞いたので、話しかけて仲良くなってもらった。この子は前年サマスペに行っており、松竹座の2列目かなんかに入ったと話してくれたのを、とても羨ましく聞いた。お家にお邪魔して昔の映像を見せてもらったり、一緒に電車に乗ってジャニショに行ったりもした。

当時、田舎の進学校に通う平凡な高校生として、できるだけのことをしていた感覚がある。もらったお小遣いはほぼ全部関ジャニ∞に注ぎ込んだ。掲示板で出会った人に過去のほんじゃにの録画全編とJ3KANSAIの録画全編を焼いてもらって、ずっと見ていた(大きな声で言えないけど、買った)。できる子安田くんにさらにメロメロになった。

秋には全国ツアーが行われた。なぜか地元のホールに関ジャニ∞がくることになった。ほんとになぜだかわからない。自名義でチケットは取れなかったから、掲示板(黄色い背景)に齧り付いていた。当日までチケットは見つからなかった。それでもとりあえず会場に行って、ひたすら掲示板を見ていたら、開演10分前に譲ってくれる人が現れて、奇跡だと思った。会場が居住地に近いとこんなこともできるんだ、と感激した。

3階バルコニーから見た景色はあんまりいいものではなかったけど、学校の行事で使うような場所に関ジャニ∞がいるのはとても不思議で嬉しかった。サムライブルースで3階を指さしてくれた安田くんのことは今でも覚えている。

ちなみに、この頃オタクのマナーがめちゃくちゃ悪くて、上からは露骨な席移動がよく見えた。本人直筆で、いい加減にマナーを守れ移動すんな衣装引っ張るなみたいな手紙が来たのはこの頃か?うちわもいまの比じゃないくらいでかかったし、それをめちゃくちゃ上にあげるし、今じゃ考えられない様だった。

そして、関ジャニ∞、びっくりすることに、冬にもツアーをしていた。この頃は、オーラスの最後に次のツアーを発表するくらいのサイクルで動いていた。信じられない。

冬のツアーは学校終わりに名古屋に行った。昼休みにジャニウェブを見たら、「3回転して」だったかなんだったかをうちわに書いたら安田くんが3回転してくれるということが書かれていた(渋谷すばる安田章大の交換日記の連載)。うちわ、作らなきゃ!と思って、学校の購買で画用紙とペンを買って、即席うちわを作った。学校終わりに名古屋に向かうのはタイムスケジュール的にはギリギリで、途中ハンズに寄る余裕はなかった(この頃の100均にうちわグッズなんかはない)。肝心のライブはあんまり覚えていない。3回転はしてくれたと思う。


【2007年】

関ジャニ∞初めてのドームコンサートは、翌日がテストだったので、行かなかった。隣のクラスのすばる担は行ったって言ってて、羨ましかった。グッズだけ通販で買った(なぜかこの頃グッズ通販があった)。

そして決まった47都道府県ツアー。地元の日は、学校で受ける模試と被っていたのだけど、どうしても行きたくて、隣のクラスのすばる担と示し合わせ、途中で体調不良を装い、抜け出した。真面目な高校生だったので、何かをサボったのは初めてだった。いつも以上にドキドキした。席はアリーナの前方だったと思う。大倉くんの誕生日が近かったので、みんなでハッピーバースデーをした。ケーキに顔を突っ込む大倉くんを見たのはいい思い出。

ここで、いったん私は受験生になる。いよいよ受験生になってしまった。前述の通り進学校に通っていたので、何をおいても勉強が第一だった。関ジャニ∞のDVDをダンボールにいれて封印した(が、夏に耐えきれなくなって開封した)。

とはいえ、受験生を支えてくれたのもまた関ジャニ∞である。勉強机の横に47都道府県の白地図を貼って、関ジャニ∞がツアーで回った場所を8色のペンで塗りつぶした。

8月5日は家でレポを読んでひたすら泣いた。信じられないことが起こったと思った。今も昔もあんなに行きたかった現場はない。8人の関ジャニ∞が見たくてしかたなかった。その後の写真集に8人の姿が出たのを見てまた泣いた。あれは一体何だったんだろう。

47ツアーはお祭りだったな。各地方ごとに違う表紙のテレビガイドが出て、初めて本屋に電話して取り寄せてもらった(この頃はまだオンラインショッピングはメジャーではない)。

DVDは出てすぐ買ったんだけど、見る暇がなくて、塾に行く電車の中にポータブルプレイヤーを持ち込んで見た(この頃は外で動画を見ることもあまりメジャーではなく、奇怪な目で見られていた)。


【2008年】

受験シーズン真っ只中、関ジャニ∞はソロコンをしまくっていた。安田くんのソロコンの日は私の二次試験当日だった。松竹座で行われるのもアツいなと思った。関西の大学を受けたので、試験終わりに向かえば行けなくもないなと頭をよぎったが、気もそぞろになりそうでやめておいた。さすがにこれは正しい判断だったと思う。でも行きたかったな、と今でも思う。関ジャニ∞関係で松竹座に行く最後の機会だったかもな。私は関ジャニ∞関係で松竹座に行ったことがない。いつまで経っても松竹座コンプレックスが晴れない。

この頃、内くんが研修生として戻ってくることも発表されて、これまた泣いた。内くんと亮ちゃんのドラマはちょうど試験終了後だったので、なんだか春がきたな、と思った覚えがある。

安くんのソロコンは行けなかったけど、横山くんのソロコンには行った。当日の朝、電話で滑り止め私立の結果を聞いたら、普通に落ちてたので動揺した。動揺したまま行ったソロコンにはマルちゃんがゲストで来ていてびっくりした。名古屋にゲストが来ることなんかないから。

なんやかんや、晴れて大学生になった。一人暮らしだったのでいろいろ自由になった。

春ツアーは自由気のまま横アリに行った。トリプルアンコ?もっとかな?とにかくアンコールがたくさんあった気がする。あの頃はアンコでどれくらい粘れるか?が勝負だった。賛否両論だったかもしれないけど。夜行バスで横浜から帰って大学の入学式に出た。昨日横浜にいたなんて全く知らない両親の横で、必死で眠気を堪えていた。ゴールデンウィークは城ホに行った。関西にいると城ホが近くて感動した。mixiでチケットを譲ってもらった保育士のお姉さんと、開演後にご飯を食べた。

その頃ブログでやり取りしていた安田担のお姉さんが近所に住んでいることも知って、ご飯を食べに行った。お好み焼きをおごってもらって、お礼にパフェをおごった。

Touch echo特番の観覧にも行った。前日にすばる担と一緒にラストフレンズで長澤まさみが働いていた美容室を吉祥寺に見に行った。これが宗佑(亮ちゃん)の目線か……と思った。echo特番は13時間あった。屋根のない野外のベンチに座り続けるのは辛かった。一回だけマルちゃんが横を通ってくれ、チラッと目線をくれたのが救いだった。あの特番はなんだったんだろう。

あと、この辺はむにゃむにゃしながら聞いて欲しいんだけど、初めて鳥貴族にも行った。初めて飲んだお酒は、鳥貴族のカルーアミルクだった。すみません。


相変わらず関ジャニ∞はライブをたくさんしていて、春ツアーの次は夏ツアーがあった。春に城ホのチケットを譲ってもらった保育士のお姉さんが声をかけてくれて、一緒に福井に行った。近くの駅で待ち合わせして、電車の中でたくさん関ジャニ∞の話をした。お姉さんはうちわを作ったことがないと言っていたので、今度一緒に作りましょう!って言ったりもした。


そして、これを最後に、ここまでメンタルもフィジカルも捧げまくった関ジャニ∞から、私はすっかり離れてしまうことになる。活動量が多いサークルに入り、それが楽しすぎて、関ジャニ∞どころじゃなくなったのだ。

かろうじて、お好み焼きをおごってくれたお姉さんと一緒にカゴツルベには行ったが、終演後にご飯を食べようという誘いを断り、その足でサークルの会議に向かった。

ジャニ勉の番協に当たったのに、ブッチしたこともある(信じられない)。


【2009年〜2012年】

そんな感じでオタクじゃなかった時間。

puzzleと5大ドームは行ったけど、それ以外はほぼ何も見てない。あの8uppeesも、あんなに楽しみにしていた8周年も、完全にスルーした。

この頃、なんと、Blu-rayレコーダーを持っていなかった。信じられない。

というわけで、オタク、辞める時は一瞬。


【2013年】

JUKE BOXってめちゃくちゃいいコンサートでしたね。

気の抜けたオタクには衝撃が大きかった。安田くんは相変わらずめちゃくちゃかわいかった。あ、これはいいかもしれない、と思った。

これかやはたまにCDを買って年に1回くらいは現場に行くようなゆるい応援をしようと思っていた。信じられない。


【2014年】

上記の思いはどこへやら、再びズブズブと関ジャニ∞にハマっていく。見ていなかった期間のCDを買い集める。レコーダーも買い直した。

十祭に間に合ってほんと良かったと思った。気まずいのkicyuやヨコヒナtornで崩れ落ちたことは覚えているので、その頃には追いついていたのだろう。真夏の長居はとても暑かった。それでも行ってよかった。

この頃Twitterを始めた。関ジャニズムではフォロイーさんと会ってご飯を食べたりもした。ジャニワってのが凄くて……という話を聞いたりもした。いわゆるファン活動全般が楽しかった。京セラのレコメン収録もこの年だったか。金髪の大倉くんがめちゃくちゃかっこよかった。ヒナちゃんが着ていたSHIPSのセーターを買った。


【2015年】

本格的に出戻った意識がある。

ジャニオタに出戻ったわけ - 愛の歌でも歌うよ forever

いまも仲良くしてもらってるお友達と出会ったのもこの頃かな。

リサイタルで関ジャニ∞がまた地元に来た。初めて地元に関ジャニ∞が来た時に、こんなことはもう二度とないかも…って思ったけど、それから3回来た。思ったよりよく来た。

2015年は関ジャムとクロニクルが始まって、ある意味一つギアがあがった年だったような印象がある。味園ユニバースも2015年か。すばるくんのバリカンに怯えていた日々。

この時私はブラック企業で働いていて、いろいろ大変だった。早朝から夜中まで働いていて、帰宅したら今井翼のツーベースが終わってたこともあった。営業先に行く途中の田んぼ道で「振り向くわけには行かないぜ」を聞いて号泣した。

ナゴヤドームまで30分の距離にいてチケットは市場にあるのに、会社で仕事をしてる意味がわかんなくて、転職を決意した。クリスマスの名古屋では私が大好きなキミへのキャロルを絶対やると思っていたので、見られないことに耐えられなかった(やらなかった)。

仕事がつらければつらいほど支えられている実感はわき、憂鬱な日曜の夜にやってる関ジャムに救われていた。

元気が出るLIVEのオーラスは大倉くんが腸閉塞でいなかった。開演前にメンバーが出てきて説明してくれたとき、何が起こったのか理解できなかった。血の気が引くってこういうことか、と思った。大倉くんの穴を埋めるコンサートはずっと切なくて、それでも楽しかった。すばるくんが泣いたのも覚えてる。大倉くん不在公演を感動的なドキュメンタリーに仕上げ、あろうことか6人と1人が分かれるようなジャケットにしたライブ円盤にはブチ切れた。この頃はよく円盤に切れていた気がする。オタクのインタビューいらねー!って言ってた。

 

【2016年】

晴れて転職をした!

上司が大野担だったり、同僚がニノ担だったり、そのほかにもいろんなオタクがいて、今までで1番息をしやすかった。フレックスではなかったけど時間の融通はきくので、コンサートにも行きやすくなった。

エイタメ初日は札幌まで飛行機が飛ばなかった。空港のテレビではサタプラが流れていた。マルちゃんがいる札幌はめちゃくちゃ雪が積もっていて、ここに行くんか…?と思っていたら、案の定行けなかった。欠航のお知らせを聞いたとき、1年ぶりに血の気が引いた。

ちなみにこのツアー中に結婚した。婚姻届を出した足で大阪に向かい、ライブに入った。360°ステージの花道横だったので、今日結婚したよってうちわ持てば良かったって思ったけど、まぁ、持たなくて良かった。

お友達とコンサートに入ったり、ご飯を食べるようになったのもこの頃か。社会人になって友達ができる嬉しさがあった。

リサイタルでナポリタンをひたすら聞いたのもこの年?


【2017年】

関ジャニ∞が音楽的に認められてきているという確かな肌感があった頃。アルバム、ツアーのジャムは一つの集大成だと感じた。メトロックには行かなかったけど、ジャムの初日には行った。アウェイで聴衆を鷲掴みにしてきたであろう彼らに、揃ったKANJANI EIGHTを聞かせられる誇らしさがあった。発売当初は難しくてできないだろうなと思っていた曲をバンドでやるようになって、感慨深かった。ここ数年模索していた「関ジャニ∞らしさ」がこんな形で花開くんだなぁと思った覚えがある。

俺節も2017年。身を切るような舞台に衝撃をうけた。


【2018年】

渋谷すばる関ジャニ∞を抜けることになった。と同時に、安田くんが腰骨を折った。第一報は「こけて腰を打った」だったと思う。安田くんはすばるくん脱退会見にも出席していなかった。実は大病をして手術をしていたとか、後遺症でサングラスが外せなくなったとか、そんなことは当時はわからなかった。

渋谷すばる最後の関ジャムで、画面に向かって「eighter」と叫んだこと。亮ちゃんが自身とすばるくんをジョンとポールに例えたこと。全てよくわからないまま、GR8EST初日札幌に飛んだ。

あんなに必死でエイトコールをしたのも久しぶりだった。あんなに泣くコンサートももうないと思った(けど、近々またあるかもしれない……)。4連で入ったお友達と文字通り泣き崩れた。でも、やっぱり関ジャニ∞が大好きだと感じたコンサートだった。

札幌の安田くんは、見た感じ元気そうに見えた。コルセットをまいた体躯が妙にセクシーで、いいじゃん!と思った。今思うととても能天気だが、心配しすぎるより良かったと思う。ただ私が想像していたより事態は悪かったようで、名古屋公演を終えるとき、乗り越えられた安堵やなんやかんやで、安田くんは泣いていた。このときのドキュメンタリーはあまり見ることができない。


【2019年】

不穏な空気が漂っていた2019年。

マニアックで以前より動ける安田くんを見て、正直ホッとした。不条理で不謹慎でおもしろい舞台だった。

15年目を派手に祝いたくて、私も5大ドームを回った。熱望していたメンバー紹介ラップ(アップデートされた∞o'clock!)から始まる十五祭は、ある意味夢のようだった。8人だったころも含めて、自分たちの歴史をまるっと差し出したコンサート。とても満足感が高かった。途中抜けていたとはいえ、長年応援してきたご褒美をもらえたようだった。怒涛のシングル曲メドレーで踊りまくって最高だった!

思い残すことがない東京ドームオーラスの翌々日に、亮ちゃんの脱退が発表された。不穏な空気の答え合わせがされてしまった、と思った。居ても立っても居られず、大阪でお友達と集合した。トリキで飲んで、ホテルで大倉くんのラジオを聞いた。私は6人の関ジャニ∞は結構受け入れられたんだけど、5人は頭の中の関ジャニ∞像と重ならなくて、どうしよう、と思っていた。

安田くんは今年2本目の舞台、忘れてもらえないの歌に出ていた。1番好きな安田くんの舞台かも。初日は、タイムラインの安田担ほとんどいて笑った。

亮ちゃんのソロコンにも行った。ライブハウスは不慣れで、会社のバンド好きに事前に流儀を聞いて行った。聞き慣れたギターリフを知らない人が弾いていることに泣いた。

この年、私は馬鹿みたいに遊んでいた。秋にはこれまたお友達と集まって、ドラフト会議をしたり、USJに行ったりした。ハリウッドドリームザライドでfaaaaall in love聞いて、めっちゃいい曲だ!って騒いだ。

だから、2019年は、とても悲しかった年でもあるし、とても楽しかった年でもある。

2回目の47都道府県ツアーはギリギリ行くことができた。5人がとにかく楽しそうで、ずっとこのまま楽しいままでありますようにと願った。


【2020年〜】

ここで、私は関ジャニ∞の船を降りた。いや、ギリギリデッキの端くらいには残っているつもりだけど、厄介な性質も相まって、いわゆる担降りブログを書いた。複合的な理由があった。タイミングとか、いろいろ。

とはいえ、ドラマを見たりCDを買ったり配信ライブを見たりはしていたので、行動としては特に変わっていないんだけど、まぁ、でも、1番に据えなくなってしまった。

そんな中で見たドリアイの配信は本当に幸せだった!あれまたやってほしい!

コロナ禍の制限が解け始めた頃、マシーン日記を見に行った。見ないふりをしていたものを突きつけられるような衝撃的な舞台だった。

8BEATで、やっぱり関ジャニ∞のコンサートってめちゃくちゃ楽しいな!と思った。

 

そして十八祭。日産スタジアムはめちゃくちゃでかかった!初っ端から怒涛のメドレーに、ワーワー言ってたら終わっていた。6人の最初も5人の最初も一緒に見たお友達とたまたま一緒に入ったこともあり、ここまでが走馬灯のように一気に思い出されて、これはもう、人生だ!と思った。Twitterでも、人生!という声が散見されて、そうなんだよなぁとしみじみした。だって、こんなに長い間、時間とお金を費やして、人間関係を構築して、感情を揺さぶり続けてきたんだもんな。これは人生でしかない。

 

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そんな関ジャニ∞の名前も今日が最後。

私は関ジャニ∞に限らず、名前自体にそこまで思い入れがないことと、今回の件をエモ消費することに反対なので、情緒的には揺れてないんだけど、それでも寂しい気持ちはある。知らない人と手を繋いで何度も叫んだあの名前を、もう呼ぶことはないのかと思うと、なんだか不思議でもある。

 


でもきっと同じくらい新しい名前を愛せるし、楽しいこともたくさん一緒にできると思う。

二十祭がどんなお祭りになるかも楽しみだし、二十五祭、二十八祭、三十祭もしっかり見届けたいと思ってる。その時々で熱量も距離感も違って申し訳ないんだけど、関ジャニ∞がかっこいい大人でいてくれて、本当に嬉しい!

 


これからもよろしくお願いします。